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文芸編

【童話作家】 與田 凖一 (1905~1997)
 瀬高町上庄に生まれる。大正13年下妻尋常小学校に奉職。昭和3年に上京。北原白秋に師事し、「赤い鳥」に入社。昭和8年、28才で処女作である童謡集「旗*蜂*雲」を出版。以後著作活動に入る。この間、「山羊とお皿」その他で、「日本文化協会第1回児童文化賞」(昭和15年)、「與田凖一全集」で「第14回サンケイ児童出版文化大賞」(昭和42年)、少年少女詩曲集「野ゆき山ゆき」で「第11回野間児童文芸賞」(昭和48年)などを受賞した。作品に、毎日小学生新聞に連載し、光文社から昭和26年に出版した「五十一番目のザボン」、岩波文庫として昭和32年に出版された「日本童謡集」などがある。また、昭和25年には日本女子大学児童学科講師、昭和37年に日本児童文学者協会会長、小学館文化大賞の審査員などを勤めた。平成9年2月91才で没した。清水山の三重塔前庭に歌碑「山上水遠のなかにあって 白雲霊夢をおもう 花影月露のなかにきこえる 乳父慈悲のこえ」が建っている。毎年10月、詩碑の前で、児童文学祭「むっきっき」祭が催されている。
【歌人】 西田 嵐翠(本名 知一) (1888~1966)
 瀬高町本吉に生まれる。高等小学校を終えて門司鉄道局に奉職する。短歌の道に入るのは21才の時。北原白秋の伝習館時代の学友近藤友雄が又従兄弟であった縁で、白秋の勧誘により、その感化をうけたものであった。初期の活動舞台は、専ら投稿誌上であり、「中央文壇」、「秀才文壇」、「万朝報」、「ハガキ文学」、「新文林」などの短歌欄を賑わした。その後、明治43年の「創作」、翌44年の「詩歌」の創刊に参画、同人として本格的な詠作に邁進する。大正初期には、九州歌壇の魁となる「山上の火」の結成発行に多くの歌人と共に尽力した。また、職場門鉄局の文芸誌を主導編集し、多くの歌人を育てた。此の間鉄道局職員として勤務し、昭和15年に若松機関区長となり、同17年定年を迎え、鉄道省嘱託として直方鉄道青年錬成所長に就任、後進の育成に携わった。戦前の同人雑誌第1次・第2次の「珊瑚礁」、「覇王樹」、「あさひこ」誌上に活躍するも、戦火が激しくなると共に日常生活は逼迫し、同志6人で回覧誌「われら」を発表する。昭和19年に熊本鉄道錬成所長となり、郷里瀬高町に落着く。「慟哭」(昭和20年)、「転機」(翌21年)を発表するなど、戦後も詠作活動を続け後進を育んだ。特に、二宮冬鳥が主宰した「高嶺」に参加、嵐翠短歌の名を世に知らしめた。晩年は書店経営の傍ら詠作を続け、昭和41年5月、77才で没した。
【俳人】 松尾 竹後(本名 松尾熊次郎) (1882~1960)
 明治15年瀬高町大草に生まれる。本姓由布。明治35年頃中学伝習館時代に文学少年4人の作家活動があった。北原白秋・由布白影・藤木白葉・桜庭白月である。この頃に文学に目覚め其々の道を歩むが、熊次郎は俳諧の門を叩いた。松瀬青々の「宝船」、高浜虚子の「ホトヽギス」に投句を続け、次第にその名を知られるようになる。日露戦争に従軍中に母方の姓を継ぎ、松尾姓を名乗る。俳号も竹後・竹皮散人等を称した。師の松瀬から俳壇の駿足と讃えられ、明治40年に上京すると、弱冠28才の若さで「宝船」の選者に抜擢された。大正8年「倦鳥」に発表した愛別離苦を詠じた連作句「海鼠の如く」の130余句は、当時の俳壇に衝撃を與えた。30代の句作である。昭和16年に帰郷し、爾後郷里を動くことなく作句と後進の育成にあたった。昭和16年に「閑地菜園」、同27年に「爽」を発行し投稿の場とし、また、清水寺に芭蕉忌を修し続けた。昭和35年、79才で没した。こよなく愛でた清水の本坊前庭に「しづかにも 月の僧坊 さまたぐる」の句碑がある。他にも町内に数基の句碑があり、彼の連句「海鼠の如く」が没後町内で刊行されている。
【詩人】 中島 宏 (1927~1953)
 昭和2年瀬高町太神に生まれた。太神小学校から三池中学に進み、戦時中の学徒動員に耐えて、戦後の混乱の中にガリ版刷りの詩集「詩想」を出し、北九州で刊行されていた「FOU」(鵬)に参加。詩・エッセイを続々と発表していた。戦争が齎らした暗黒の烙印に対峙して数々の作品を「詩郷」・「ピオネ」に掲載した孤高の詩人である。昭和25年に同志と共に「二十世紀クラブ」を結成し、「詩精神」を発刊。母校太神小学校の教師をしながら作詩活動を続け、その研ぎ澄まされた本格的な論評、詩論は他の追随を赦さないものがあった。教師としては生徒に親しまれ、丁寧な作詩の指導をし、童話を語り聞かせてくれるやさしい「せんせい」であった。惜しむらくは、戦時中の学徒動員の過労がたたり、胸を病み闘病生活の中で、「もっと生きたい、もっと書きたい、もっとひとを愛したい」と訴え乍ら、昭和28年3月、25才と云う余りにも短い一生を終えた。常に若者を魅してやまなかった天才詩人の終焉であった。
【歌人】 廣田 彦麿 (1830~1896)
 瀬高町下庄の広田八幡宮神官広田速見の子として生まれた。神職を嗣いで従五位下上総守。筑紫速雄の別名がある。若くして国学者西原晁樹に和歌を、足達兵造に武道を学び、和歌・武術に秀でた。幕末に尊皇攘夷思想に傾倒して各地に遊説し諸国の志士と交流する。特に、久留米の水天宮神官真木和泉、また、有栖川宮熾仁親王の知遇を得て、征東総督府本営に同志を率いて参画し、江戸城進撃・東北平定祈願に呼応した。明治元年、勤王諸隊を以て組織された蒼龍隊の取締(隊長)となり、大総督府本営警固・市中警備に当たった。以後、上野攻撃・東北鎮撫にも従うが、天皇の江戸城入城によって任務を解かれ、解散帰国を命じられた。その後、明治4年正月の参議広沢真臣暗殺事件の嫌疑を課せられて、逃亡・投獄の人生を送った。逃亡中にかつての蒼龍隊同志であった富士山御師団の本拠山梨県上吉田村にも到り、当地で神官の傍ら、歌道指導をしている。その弟子の中から「 万葉集」の抄出稿本「稚学楢栞」を編纂した山本苗子が出る。なお、彼の編纂した歌集に「慷慨詩歌集」が知られる。晩年は郷里で隠棲生活を送り、明治29年67才で病没した。


教育編

【漢学者】 西田 幹治郎 (1831~1908)
 天保2年に瀬高町小川に庄屋の子として生まれた。幼くして学問を好み、壇秋芳の塾で文学に勤しみ、長じて横地玄蕃の龍山書院で漢学を学ぶ。金栗の生家に私塾明倫堂を開設し百余名の塾生を訓導した。後に龍山第一書院、麗川(浦川)義塾と呼ばれた漢学塾である。明治27年に塾内の祠堂に藩校の孔子像を祀り、春秋二回の祭奠を続け、その儀礼を現代に伝えたことは著名である。明治5年の学制公布に依って閉塾となった後も、学徳慕う者多数であったと云う。明治41年78才で没した。
【漢学者】 壇 秋芳(本名 采次郎) (1805~1886)
 文化2年生まれ。幼名を惣吉郎と云い、また、宇宙閑人東郊の号がある。幼くして父母を失い、生活困窮するが勉学に志し、樺嶋石梁に指導を受け、牧園茅山の門に入り漢学を学ぶ。若くして子弟教育に努めたが、嘉永元年に吉井村の廃屋を改修して家塾を開設する。同3年に至り援助者を得て新築し「鶴鳴堂」と称する。これより吉井塾の名近隣に聞こえたと伝える。明治元年に廃止となった本郷番所を移し「菁莪堂」を併置する。明治6年の学制の施行に伴い閉塾した。明治19年に82才で病没した。生来古楽を好み琴・笛を良くしたと云う。
【教育者】 倉田 トリ(1874~1951)
 明治6年山川町蒲地山に生まれる。旧姓は由布。上京し、共立女子職業学校(現共立女子大)で杉森シカ(杉森女子学園の創設者)等、近代日本の女子教育の礎を築いた人々と交流。その後九州に戻って教職につき、尚絅高女(現尚絅高 熊本市)などの各学校に赴任した。男子教育を念頭において編成されたカリキュラムによる授業に不満を感じたトリは、女子教育に専念する為の学園をつくることを決意し、大正3年に大牟田家政学校を創立。女子教育に心血を注いだ。学園は幾多の変遷をへて、現在では男女共学の誠修高校となっている。


芸術編

【画家】 石橋 美三郎 (1893~1968)
 明治26年瀬高町小川に生まれる。中学伝習館を中退して明治41年に上京し、太平洋美術学校を卒業する。以後、大正3年創立の二科会に入会し、一水会・示現会と入会して活動の場を広げる。画歴としては、昭和6年に第18回二科美術展覧会に出品した「眼鏡橋」が入選。以後、示現会展に「久重高原」(第11回)・「雲仙天草灘」・「那須十石平」(第12回)、「北極の牧場」(第30回)と入選する。また、太平洋画会展覧会に「石川」(第18回)、「小滝のある風景」(第32回)、「親子」(第36回)、「暁」(第37回)と精力的に出品を続けている。大正12年の関東大震災に被災し、一時帰郷するが2年後結婚して再度上京する。昭和8年に福岡・久留米・大牟田・柳川・熊本・瀬高で個展を開いたが、郷里に帰ることはなかった。山門高等学校・上庄小学校・下庄小学校に寄贈された作品がある。町立図書館には遺族から寄贈された作品「ガタガタ橋」がある。昭和43年75才で東京に没した。
【画家】 山下 筑水(本名 武一) (1887~1921)
 山下武一氏は明治20年、山下勝巧氏の弟として田尻の宮の下に生まれた。幼時より温順でしかも気骨があり、常人と異るところがあった。岩田高等小学校在学中図面の教師平島先生に才能を認められ、卒業と共に上京して川端玉章の門に入った。筑水と号し後寺崎先生に師事し、画道に精進する事11ヵ年、其の間宮内省御買上の御光栄に沿し又は、宮中の襖に雄筆を振うの光栄をにない、立花公61才の賀のお祝いに一幅を納めた。帰省や上京は常に江浦新町の道友永江質吉と同伴であった。柳河旧藩士十時氏と特に親交があり、又野田大塊翁より特に愛顧を受けていた。氏は富豪名門にこびず、小事にこだわらず、常に悠々として画家としての風格があった。大正の初年には江浦の馬場、永江両氏の招きによって数枚の揮毫を残している。氏は田代山下伊勢吉の養子となり、妻ましとの間に一子博之あり。熊高工卒業後満州に就職のため一家渡満した。気候風土の異変甚だしく、氏は遂に悪性寒冒かかり静養の甲斐なく、35才一期として異境の土と化した。
【書家】 原田 観峰(本名 孝太郎) (1911~1995)
 明治44年瀬高町下庄に木工職人の子として生まれる。家業の失敗で生家が没落し、苦学して教師となり上京する。知遇を得て書道に目覚め多くの師の薫陶を受ける。泰東書道展に「写経細楷」を出品し入選する。また、斯華会に所属した。戦後は昭和21年秋に下庄八幡神社境内に私立瀬高幼稚園を開設、幼児教育に務める。その傍ら瀬高中学校の書道講師として書道教育にも情熱を向ける。幼児教育としては、瀬高幼稚園を継承した瀬高保育園の経営に努力し、その分園を本郷に開設、また、唐尾にひばり保育園、上長田にほたる幼稚園を開くなど活躍する。その中で習字の通信教育を模索し続け、昭和28年「西日本書道学会」を創設する。爾後紆余曲折はあるが、現在全国的となった教育習字の組織を確立するに至った。著書に「観峰名訓書範」などがある。平成7年84才で没した。晩年は世界各地へ書道を通じた活動を広めていった。なお、その墨書は町役場をはじめ町内に数多く残っている。


政治編

【官僚】 中村 祐興 (1829~1911)
 文政12年7月10日、現山川町原町に生まれる。慶応元年、長崎の操練伝習所へ遊学の後、明治元年に徴士となって大津県(現在の滋賀県)の権判事に就任。明治3年に大津県が大洪水にみまわれた際、祐興の責任において国の公金を救助金として緊急に支出し、多くの県民を救った。また、中央官と地方官の意志の疎通と地方の実状にあった政策を行うことを目的とした「地方官会議建白」をし、明治7年の大蔵省主催の「地方官会議」に発展した。地方官として活躍した後、明治3年に大蔵省に転身して監督正(現在の会計検査院の長)に任じられ、日本で初めての官営模範工場となる富岡製糸場に関わった。明治7年、当時の大蔵省紙幣寮初代抄紙部長に任じられ、紙幣用紙の開発に取り組んで透かし入れに最適な「中村紙」を開発。幕末から明治への新旧交替の時代、贋札造りの横行や旧幕府以来の各種硬貨・藩札などの流通による混乱の中で、弊制の統一・近代化に貢献した。その後、明治31年に官を辞して福岡に隠棲。明治33年に中村紙の開発と紙幣用紙の改良が評価されて正五位勲四等瑞宝章を受け、明治42年10月14日に82才で没した。




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