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神籠石の謎に迫る

 「神籠石」と呼ばれる遺跡は、福岡県内を中心に9ヶ所ある(神籠石遺跡一覧表参照)。その遺跡は山塊地形を利用した石列・水門の連なりである。例えば、雷山神籠石は山頂部を鉢巻状に囲むし、御所ヶ谷神籠石などは山塊の稜線を繋いでいる。瀬高町の神籠石の場合、西側山麓部から古塚山頂を囲むように列石・水門が続いている。  遺構の名称は、高良山神籠石が高良玉垂宮を取巻くように発見され、その境内図の中に「神籠石」の文字があったことから付けられた。しかし、各神籠石の発掘調査が重ねられた結果、現在では古代の山城遺構であることが略々断定されるまでになっている。
 神籠石の構造は、石列に沿って土塁を築き上げ、谷筋には渓谷の流水路を塞ぐために水門を開けた石積みを施し、山頂部全体が防御壁によって保護されて、外部からの侵入を阻止できるよう配慮されている。その構築技法から、「日本書紀」等に見える大野城(糟屋郡宇美町外)・基肆城(佐賀県基山町外)・金田城(長崎県美津島町)などと等しく、朝鮮渡来の技術者によって築かれた「朝鮮式古代山城」遺構の系統に属するものと推定され、その築造時期は古墳時代の後期、特に、唐・新羅と日本・百済による白村江の海戦があった7世紀中頃前後の緊張した時期、6~8世紀の間と考えられる。勿論、その分布・規模から大和政権による国家的事業として築造されたものと見られる。

 女山神籠石分布図
 
 
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旧石器時代の瀬高

 旧石器時代の遺跡の多くは、数十点ほどのわずかな石器が砂礫とともに散乱しているのが普通である。概して住居は簡単な造りの小屋に住み、獣(シカ・イノシシ)や季節的に遡上する魚類を追って広い範囲に移動したと考えられる。肉や魚の加熱には、火で焼くか、熱く焼いた石を使って蒸し焼きにしたのであろう。使用した石器群の変遷によって、文化や技術の発展を顕わし、狩猟の対象にあわせて道具を改良している。
 昭和37年には、清水小谷遺跡から、打器・石核・槍先形(ポイント)が発見され、昭和51年獅子穴遺跡の調査に伴い、ナイフ形石器が出土している。このほか、大谷遺跡や山川町前畑遺跡では、縄文時代早期の押型文土器が発掘調査によって出土し、打器はこれ以前のものと推定されている。
 
 
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旧石器時代の遺跡分布

 瀬高町の旧石器文化は、東部にある清水山で発掘された。多数の打器(チョッパー)が採集される遺跡が数多く分布するという特色を持ち、清水山遺跡群と呼ぶ。
 日本における石刃石器時代(後期旧石器時代)は、ナイフ形石器文化(約3万年前~1万4千年前まで)と細石刃文化(1万2千年前)までである。
 
石器製作方法(ナイフ形石器) 福岡県内 旧石器時代遺跡分布図

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縄文時代の暮らし

 縄文時代には計画にそった住居がならび、定住性の強いムラが営まれ、共同墓地が造られるようになる。また、産地の限られた黒曜石やヒスイなどが広い地域から発見されるため、流通ルートが確立していたことがわかる。
 住居は中央に炉があり、煮炊きや貯蔵のための土器、生活用具の石器、土偶といった祭りの道具が揃う。食事、就寝、作業、祭祀が、各住居それぞれに独立しておこなわれる今日の世帯に類似しているようだ。食糧は主として木の実(ドングリなど)、獣や魚など野生のものであるが、初歩的農耕生産も見られるようになる。また、漆・編物・木製品を作る技術もあった。
 
 
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縄文時代の遺跡分布

 縄文時代の瀬高は、後期末~晩期に至って大規模な集落を営む。坂田あたりの沖積微高地に立地する坂田中園遺跡や権現塚北遺跡がこれにあたる。この遺跡の特徴は、土器では後期末の御領式~晩期中頃の黒川式までの黒色研磨土器を含む、深鉢、浅鉢、注口土器などが出土している。住居跡は方形の平面形態の堅穴式住居跡であり、規模は4m×3mである。このほか、土器の底部を打ち欠き、立ったまま埋められている「埋甕」がある。出土遺物としては、装飾用の勾玉や扁平打製石斧、十字形石器、石錘、石鏃などの石器類が多数出土している。
 
権現塚北遺跡 2号埋壺 福岡県内 縄文時代遺跡分布図

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弥生時代の暮らし

 弥生時代は、出土品として米・紡錘車・織布・定型化された土器・大陸系磨製石器を含む農耕具・金属器・支石墓などを残しており、これまでの縄文文化の伝統に、新しく大陸からもたらされた要素が加わることによって、新しい文化が生みだされていた。稲作は縄文晩期後半、朝鮮半島の南部を経由して北部九州にもたらされた。
金属器では青銅器が当初武器であったが、祭器に性質を変えた。
鉄器は農耕具や武器として欠かせぬものであった。甕棺墓は北部九州の墓制として中期~後期前半に盛行した。青銅器を副葬する甕棺墓は少数に限られており、弥生社会の階層差を示すものと考えられている。
 
 
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弥生時代の遺跡分布

 瀬高町の弥生時代は、前期から住居跡・祭祀跡・墓地等が発見されている。標高50mの三船山遺跡からは、中期後半~後期前半の堅穴式住居跡24軒、祭祀跡としては中期後半の丹塗り筒型器台や甕が確認されている。また、土器が破棄された上枇杷遺跡や、山麓に中広形銅矛二本を埋納していた産女谷遺跡等もある。
 甕棺墓は、中期初頭~後期前半の権現塚北遺跡、戦闘による細形銅剣の破片がある小川鉾田遺跡等が甕棺墓の代表例である。後期になると、箱式石棺墓や木棺墓が多くなる。
 
  瀬高町弥生時代遺跡分布図
権現塚北遺跡 三船山遺跡

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古墳時代の暮らし

 古墳時代の集落を構成していた建物は堅穴式住居がほとんどであり、その他に掘立柱建物が含まれている。堅穴式住居は一般の居住用、稲などの備蓄用倉庫、あるいは有力者の住居として使われていたらしい。5世紀の堅穴式住居の一部にみられたカマドは、6世紀以後には、すべての堅穴式住居のにみられるようになった。
堅穴式住居は5・6棟ぐらいで一群となっている。当時の生活単位であっただろう。5世紀には、鉄製農具の端先はU字型につくられるようになる。古墳時代の初期に、古墳に埋葬された玉類、鏡、石製品、青銅器は宗教的色彩が強いものであったが、5世紀になると、鉄製の甲冑など武器が埋葬されるようになる。また、朝鮮との交流によって、5世紀頃から陶器(須恵器)の生産が伝わる。
 
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古墳時代の遺跡分布

 古墳時代(4~5世紀)の瀬高は山門遺跡群をはじめとする古式土師器を伴う住居跡があり、藤ノ尾車塚古墳(前方後円墳、55m)、権現塚古墳(円墳、48m)といった大型墳墓を造営しており、権力を支えることのできる人々の生活の場であった。
堅穴式住居跡は5m方形の平面形態まであり、中央に炉をもつ。5世紀前半~7世紀後半になると、大道端遺跡をはじめとし、微高地に大集落を形成する。4m方形の平面形状で、4本柱の堅穴式住居、北壁中央にカマドがあるのが一般的となり、須恵器や土師器を伴う。女山・清水山などの山麓に有力者層の群集墳が現れる。横穴式石室・横穴墓が主体であり追葬を可能とする墓である。
 
  瀬高町来古墳時代遺跡分布図
権現塚古墳 清水山1号墳

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