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瀬高の地理を探る

 福岡県南部より熊本県の宇土半島、天草諸島、佐賀県有明海沿岸の一部を含む地域は古生層、第三紀層が発達している。矢部川の支流である星野川及び矢部川沿には新第三期溶岩類の複輝石安山岩、凝灰質角礫石、火山砕屑岩類が大部分をしめる。瀬高町の南北、西部地域は沖積層(砂礫、粘土)が広範囲に分布し広大な米作地帯を形成している。東の山麓部は、三部変成岩と呼ばれ、少量の緑色片岩を混える。岩石は剥離し易く、緑色片岩や、火山灰質の物質を含む岩石は赤色粘土化している。南部(泰仙寺、開、堀切)は海底であったものが地殻の変動により隆起して陸地となり、再び陥没した所である。

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地名の残る昔の海岸線

  現在の瀬高町は、有明海から隔たって内陸部にあるが、大昔から縄文時代にかけては、有明の海は現在の平野部に食い込んでいた。その名残りを留めるものとして、海津・津留・中島・長嶋などの地名がある。また、干拓の跡を示す「何々開」の地名が各所にみられる。
 
 
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高田~大和の干拓と大土居

新開村旧堤記碑  有明海沿岸は、我国において最も干満の差が大きいことで知られている。干満の差を全国的に比較すると、東京湾1.9m、瀬戸内2.4mに対し、有明海は5.2mもの数値を示す。
2.4mに対し、有明海は5.2mもの数値を示す。
さらに有明海に注ぐ多数の河川の上流部は年間2,300mmを越す多雨地帯であり、河川の大氾濫とともに平野の生成と干潟の形成を促進している。これら干拓に適合する自然環境のもとで、筑後地方では少なくとも13世紀前半には堤防を伴った開発が盛んに行われている。
慶長年間に干拓のため作ったとされる30kmに及ぶ大堤防は「本土居」と呼ばれ、これ以後、基本的に「本土居」の内側が「本地」、外側が「開地」として区別される。

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矢部川の旧河道

昔の矢部川河道(黄線部分)  下流で蛇行のひどかった矢部川は、2度の掘替え工事によって、津留~徳永間はほとんどまっすぐな河口となった。寛政15年(1638)には鷹尾村が鷹尾と泰仙寺、島堀切村は現在の島と浦堀切とに分かれ、正保2年(1645)津留村が東津留と西津留に別れた。この新川に対して旧河道を古川と称している。
 
 
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郡衙の推定地と条里制の跡

 古代の山門郡は郡の等級では下郡で、山門・大江・太神・鷹尾・草壁の五郷があった。西海道は筑後国府・御井駅(久留米市)・葛野駅(筑後市羽犬塚)、そのまま南下して、山門郷があった瀬高町大字山門の郡衙推定地東辺を通り、南方で条理に沿って狩道駅(山川町尾野)に至ると推定される。条理制は、古代に行われた地割で大根川流域の松田条理区(1)、矢部川の左・右岸域の山門条理区(2)、沖端川右岸の本郷北部の下妻条理区(3)に別れる。
 

条理関連現存字名

(1)では、大広園に「八ノ坪」、松田に「佐ノ恵」、本吉に「六ノ江」。
(2)では、大江の真木に「八ノ坪」、下庄仲絶に「二ノ溝、八ノ坪」、高柳に「三ノ溝、五ノ溝」、東津留に「二ノ坪、五ノ溝」、山門に「三十六」。
(3)では、本郷作出の「志ノエ」の字名が残っている。
 
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延喜式に記された瀬高

 平安中期(931~938)に成立した、源順の「倭名類聚抄」には、筑後国山門郡の太神・山門・草壁・鷹尾・大江の五郷が記されている。下線は現在町内の、字名として残っている地名である。 平安初期の「延喜式」によると律令制のもとでの筑後国は、西海道に属し、御原・生葉・竹野・山本・御井・三潴・上妻・下妻・山門・三毛の10郡から構成されていた。国の大きさは、四等級中の上国、距離は遠国、古代の山門郡は、五等級中の下郡であり、郡司がこの地方の豪族の中から任命されて治めていた。
 
   
 
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清水寺縁起

清水寺本坊庭園  清水寺縁起によると、大同元年(806)、伝教大師(最澄)が遣唐使の一員として、天台の教えを受けて帰国するが、九州で仏教を広め、各地を巡っていると、東の山の中ほどに光り輝くものをみつけた。登ってみると光明する「ねむの木」に、観音菩薩があらわれたという。そこで、大師は「ねむの木」に観音像を刻み、仮堂を建てて安置された。以後、2度の戦火にあったが、本吉山清水寺として今日に至っている。
 

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